4月に親の里である愛媛に一人で行ってきた。実に40年ぶりである。
そこは佐田岬半島という細長い半島の先端で、
豊予海峡を挟んで向かいは大分、北は瀬戸内海、南は太平洋という温暖で風光明媚な所だ。
80歳を超えた叔父と叔母も会いたがってくれていて、
叔父自らが前日に潜って獲ってきてくれたサザエ、鮑、
叔母が漁協で詰めてきてくれたウニなど、
とても食べきれない量の海のおもてなしを肴に語り明かした。
幼少期には毎年夏休みを過ごしていた場所である。
そこはまさに「ぼくのなつやすみ」の世界だった。
私は幼少の記憶を頼りに従兄弟の住む離れた集落まで足を運んだ。
「あっちに行ってももう何にも無いぞ」という叔父の言葉を背に向かったのだが、
確かに何も無かった、いや正確には人の気配が無かった。
あの海水浴に行く途中にあった雑貨屋の建物も、石積みの壁も、お地蔵さんも、
往時の面影のままなのに人だけがいなかった。
唯一の診療所も長く勤めていた地元出身のドクターが引退され、
今は週2回ほど、一番近い総合病院からドクターが派遣される日だけ開いているそうだ。
「Dr.コトー」がいなくなってしまった状況だ。
兼好法師の言葉を借りるならば、
「衣食住」そして「薬」(今で言うと医療機関にあたるだろう)が揃って、
「豊か」と呼べる。
その一翼が欠けたこの町は、日本の他の田舎町と同じように衰退していくであろう。
漁船の数も減ったせいか、港湾内の水まで澄んで美しかった。
40年前までは「どこの子ね?」といつも尋ねられ、
親の名前を出せば「あ〜、あそこの!」とお決まりの会話が飛び交っていたものだ。
その親もあの世に行き、もはや親を知る者もいなくなっていた。
もう、この地に生まれ育った訳でも無い私にとってはここは只の過去に過ぎない。
私はここに再び来ることがあるのだろうか?
サイドウインドウからの余りにも美しい景色を眺めながらそんなことを考えていた。
郷愁を感じるのは、ルーツがあるからなのか、昔馴染んだ景色だからか?
千と千尋のように、今引き返しても、実はもう何も無いんじゃないかという感覚が残る。
道はやがて、よくある地方都市の景色へと変わり、
そこでようやく、発泡スチロールの箱にぎっしり詰め込まれた
アワビ、サザエの配り先を探さねばと我に帰る。
帰り際に、80越えの漁師が、「天然の生簀に置いておいた」
と船から山程海産物の入った籠を引き揚げ、
ニカっと笑いながら「お前のために獲ったんだから、全部持って帰れよ」
と渡されたのだった。
前日あれほど食べたのに…どんだけ獲ってんねん。
あの人が元気な間にまた訪れるのも悪くないだろう
…ノスタルジックに浸るにはまだ早かったようだ。